韓国‐最低賃金引き上げに労使双方から不安の声
2017年11月24日
2018年1月1日から適用する最低賃金額(1時間あたり、以下同じ)は、2017年の6,470ウォンから16.4%引き上げられて、7,530ウォンとすることが決まった。経営者側はこの大幅な引き上げに頭を悩ませる一方、一部の労働者側からも最低賃金額の引き上げにより、雇用が減少し、むしろ解雇されてしまうのではとの不安が広がっている。
最低賃金引き上げの歴史
韓国では、「勤労基準法」(日本の労働基準法に相当)が1953年に制定されたが、その際に、最低賃金制度の導入が規定された。しかし、当時の経済状況から最低賃金制度を直ちに実施することは時期尚早と判断され、実施はしばらくの間見送られた。そして、韓国の経済が徐々に発展してきた1980年代に入り、最低賃金制度の本格的導入の機運が高まり、1986年に「最低賃金法」が制定された。1987年には、実際に毎年の最低賃金額を決める最低賃金委員会が発足し、1988年から最低賃金額が適用されてきた。
当初は、製造業の常用雇用労働者(以下、従業員という)が10人以上の事業所のみが適用対象となり、かつ、製造業の業種を低賃金業種と高賃金業種に分け、業種によって、2本立ての最低賃金額のうち、いずれかが適用された。1990年には、最低賃金額が製造業のみならず、全ての業種に適用になり、さらに1999年には従業員が5人以上の事業所に、そして2001年からは全ての従業員に適用されるようになった。
韓国では最低賃金の改定にあたって、労働者、経営者そして中立的立場の公益委員で構成される最低賃金委員会が雇用労働部の諮問を受けて、毎年4月頃から審議を開始し、7月頃に最低賃金案を雇用労働部に答申する。それを基に雇用労働部が最終決定し、8月初旬には翌年度に適用される最低賃金額が告示されてきた。
最低賃金委員会の例年の議論では、労働者の生活向上のため、最低賃金額を引き上げるべきとする労働者側と、景気が低迷する中で毎年の引き上げは厳しく、最低賃金額は決して低くないとする経営者側とが鋭く対立してきた。こうした中、韓国では元々労働者の力が強いこともあり、ここ数年の最低賃金の引き上げ率は2013年以降、1%前後で推移している消費者物価の上昇率を大きく上回る7~8%台で推移している(表参照)。
そして、2018年1月1日から1年間適用される最低賃金額は現行の6,470ウォンから16.4%と例年の2倍を超える引き上げ率で、7,530ウォン(741円、注)とすることが雇用労働部の2017年8月4日付けの告示で正式に決まった。2018年の最低賃金額がこのような大幅な引き上げになったのは、5月に発足した文在寅(ムン・ジェイン)大統領が、大統領選挙の際に、2020年までに最低賃金を1万ウォン(984円)に引き上げると公約したことと無関係ではないだろう。
適用年 | 1時間当たり |
1日当たり (8時間基準) |
1カ月当たり (209時間基準)(注) |
上昇率 |
---|---|---|---|---|
2013年 | 4,860 | 38,880 | 1,015,740 | 6.0 |
2014年 | 5,210 | 41,680 | 1,088,890 | 7.2 |
2015年 | 5,580 | 44,640 | 1,166,220 | 7.1 |
2016年 | 6,030 | 48,240 | 1,260,270 | 8.1 |
2017年 | 6,470 | 51,760 | 1,352,230 | 7.3 |
2018年 | 7,530 | 60,240 | 1,573,770 | 16.4 |
- 注:
- 雇用労働部による月換算基準時間数。
- 出所:
- 雇用労働部
経営者側・労働者側の不安と政府の支援策
2018年の最低賃金が決まったことで、経営者側には困惑が、そして本来は最低賃金の引き上げを歓迎すべき労働者側でも、小規模小売店の販売員などに不安が広がっている(2017年8月4日付け『毎経エコノミー』「史上最大となった最低賃金のパラドックス」)。経営者側、とりわけ従業員が30人未満の小規模企業経営者は、16.4%の引き上げとなれば、人件費負担に耐えられなくなる可能性が高い。中でも、飲食業などのサービス業では、経営コストに占める人件費の割合が高く、生産性の向上を反映しない最低賃金の大幅な引き上げには困惑しているのが現状である。一方、労働者側にとっては、可処分所得が増え生活にもゆとりが生まれることが考えられるが、中小・零細企業で働く労働者にとっては、最低賃金が上がる期待感よりは、それに対応しきれない経営者から解雇されてしまうのではないかという不安もありそうだ。
他方、政府は小規模企業経営者の支援策を打ち出している。2017年8月の文政権発足後初めてとなる2018年度の政府予算原案は文政権の「自分の生き方を変える2018年予算案」というキャッチフレーズに沿って編成された。総額429兆ウォン(前年度比7.1%増)のうち、保健・福祉・雇用に予算総額のほぼ3分の1にあたる146兆2,000億ウォン(前年度比12.9%増)を投入し、次いで、一般行政・地方行政に69兆6,000億ウォン(同10.0%増)、以下、教育費に64兆1,000億ウォン(同11.7%増)、国防費には43兆1,000億ウォン(同6.9%増)の順になっている。その反面、インフラ整備のための社会間接資本(SOC)は同20.0%減の17兆7,000億ウォン、文化・体育・観光関連予算は同8.2%減の6兆3,000億ウォンだった。
保健・福祉・雇用関連に多くの予算を充当しているが、とりわけ、最低賃金の大幅な引き上げに対する支援策として、従業員30人未満の小規模企業の人件費を軽減するために、そこで働くおよそ300万人の労働者に対し、毎月最大で13万ウォンを最長5年間支給するとし、9兆8,000億ウォンを投入することにしている。これは、過去5年間の最低賃金の年平均引き上げ率である7.4%を上回る部分(9.0%分)に相当する金額を支援しようというものである。また、所得下位30%に該当する高齢者に対しては、毎月の基礎年金を従来の20万ウォンから25万ウォンに引き上げるとしている。
今回の最低賃金の引き上げについて、経営者側の団体である韓国経営者総協会では、中小企業の42%が営業利益で借入金の利子も支払えないような状況にあり、従業員30人未満の小規模企業経営者の27%が毎月の営業利益が100万ウォンに満たない状況であることからすると、2018年の新規採用は減少すると見込んでいる。また、同協会では、2016年の基準で、最低賃金すら受け取ることのできなかった労働者の87.3%が従業員30人未満の小規模企業に働く労働者であると分析している。
大幅な引き上げで、サービス業などが雇用減
韓国以外では最低賃金の引き上げはどう影響しただろうか?前述の2017年8月4日付けの『毎経エコノミー』は、米国と英国の例を紹介している。まず、米国のニューヨークでは2016年の最低賃金が1時間当たり8.75ドルから11.0ドルに25.7%も引き上げられ、2017年末には13ドルまで引き上げられる予定であるが、飲食店などではメニューの単価を引き上げただけでは対応しきれず、結局は廃業に追い込まれるところが多いのではないかとニューヨーク・タイムズ紙は分析しているという。2016年4月から最低賃金制より一段グレードアップした「生活賃金」(Living wage)制度を導入した英国では、既存の最低賃金制度より10%ほど高い生活賃金制度の導入で、流通業界を中心に解雇の事例が増加しているとしている。
毎経エコノミーでは、2018年の最低賃金審議の際に、最低賃金委員会が参考にしたとされる経済協力開発機構(OECD)の資料を基に、主要国の1時間あたりの最低賃金額をウォン表示している。それによれば、最も高いニュージーランドは韓国の最低賃金と比較して6割以上、フランスやアイルランドでは5割以上、英国でも3割以上高い。韓国の最低賃金は欧州諸国と比較すると低い。しかし、フランス、アイルランド、英国はボーナスや食費などの手当を最低賃金に含めた額であり、ボーナスや食費などの手当を盛り込んでいない韓国と同レベルで比較することは難しいとしている。
最低賃金を今後も16.4%程度の水準で引き上げられれば、2020年までに1万ウォンにするという文大統領の公約実現が現実味を帯びる。
しかし、国民から集めた貴重な税金で企業の給与を事実上補塡(ほてん)する事は本当に正しいやり方なのかという声も聞かれる。小規模企業の人件費を補塡(ほてん)することで雇用を維持するのではなく、企業の生産性向上や輸出拡大などにより雇用を確保すべきであるという意見だ。
米国や英国の最低賃金額の引き上げを見ても、サービス業の中には人件費の負担に耐え切れずに、廃業を余儀なくされ、結果として雇用が減少している実例が示された。
国民が安定した生活を営むためには、最低賃金の引き上げは不可欠であるが、過度な最低賃金の引き上げは「角を矯めて牛を殺すことにならないか?」との不安がつきまとう。一方、最低賃金の引き上げにより消費が拡大し、企業活動が活発化するという好循環が起き、ひいては経済規模の拡大に結びつく可能性もある。
文政権による思い切った最低賃金の引き上げは、同政権が掲げる脱原発や企業の法人税引き上げ政策などと相まって、2年目に入る文政権の経済運営にプラスと出るのか、あるいはマイナスと出るのか、その影響が注目される。
- 注:
- 2017年1~6月の国際通貨基金(IMF)統計によるウォンの対円レート(期中平均)で換算。1ウォン=0.0984円
- 執筆者紹介
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ジェトロ海外調査部中国北アジア課 アドバイザー
根本 光幸(ねもと みつゆき) - 1971年日本貿易振興会(現日本貿易振興機構)入会。本部、盛岡事務所、福井事務所、ソウル事務所(3回)勤務を経て、2009年5月より中国北アジア課所属。