超高齢社会が迫る中、注目される予防医療(シンガポール)

2023年8月2日

シンガポールで2023年7月5日、60歳以上の国民を対象とした予防医療イニシアチブ「健康促進SG(Healthier SG)」が始まった。同イニシアチブは、かかりつけ医による定期的な検診や健康的な食生活、運動を通して、健康な老後生活を目指すものだ。超高齢化社会入りを目前に、国内の医療体制は病院を中心とした診療行為から、地域コミュニティーの中で健康づくりをする予防治療へと大きくかじを切っている。

中高齢者に個別の健康プラン作成へ

健康促進SGイニシアチブは、中高齢者にかかりつけ医をつけ、一人一人の健康プランを作成し、健康的な食生活や運動を促すというものだ。同イニシアチブに参画する公立や民間の総合診療所(General Practitioner: GP)は7月14日時点で1,054カ所。同イニシアチブに参加した中高齢者はこれらGPでの最初の診察で、医師からそれぞれの体の状態に応じた健康づくりのプランを提示される。初回の診察料は無料。プランでは、健康維持に必要な運動や定期的な健康診断、ワクチン接種が推奨される。高齢者の健康診断は5シンガポール・ドル(約530円、Sドル、1Sドル=約106円)以下に設定するなど、定期健康診断やワクチン接種の費用の多くを政府が負担する。


シンガポール郊外の公園での健康促進SGのロードショーで、
説明を受ける市民(ジェトロ撮影)

健康促進SGは、第1段階として7月5日から、60歳以上の国民(外国人永住権者を含む)を対象として開始された。第2段階では2024年末までに、同イニシアチブの対象を40~59歳の国民に拡大する予定だ。参加は任意で、保健省は住宅街を中心に毎週末、同イニシアチブを説明するロードショーを開催して、中高齢者の参加を促している。

高齢化で逼迫する病床、保健歳出も増加

シンガポールが予防医療に取り組む背景には、加速する高齢化がある。政府の予測によると、2026年にも65歳以上の高齢者が人口に占める割合は21%に達し、「超高齢社会」入りする見通しだ(2023年4月26日付ビジネス短信参照)。高齢化などの要因により、国内の公立病院8カ所の病床使用率は新型コロナウイルスの流行前も後も、おおむね8割を超える状況が続く。新型コロナ流行の収束後も、病床使用率は上昇しており、2023年6月1日に病床使用率が9割を超え、病床の逼迫状況にある(図1参照)。地元英字紙「ストレーツ・タイムズ」紙(2023年5月4日)によると、保健省はこの理由について、新型コロナ禍に伴う病院の新設工事の遅れとともに、高齢化を挙げた。公立病院に入院する患者のうち、65歳以上の高齢者の割合は2019年の39%から、2022年に43%へ拡大している。

図1:公立病院8カ所の平均病床使用率の推移 (単位:%)
期間は2018年9月1日から2023年6月24日。2018年9月1日の使用率は72.3%であったところ、ならしてみると、使用率はゆるやかに上昇し、2023年6月24日は86.2%となった。

注:毎月1日の主要公立病院8カ所の平均使用率。
出所:保健省

また、看護師や介護士の不足も懸念されている。オン・イエクン保健相によると、2022年10月時点で約5万8,000人の看護師や介護士が国内の病院や診療所、介護施設で働いている。保健省の予想によると、高齢者の増加に伴い、看護師や介護士が2030年までにさらに2万4,000人必要となる見通しだ。同国では外国人の看護師や介護士の離職率は例年約8.9%。しかし、世界的な看護師の獲得競争の激化により、2021年に14.8%へ離職率が過去最高水準に上昇している。

さらに、運動不足や不健康な食生活などといった生活習慣の変化により、慢性疾患を持つ国民(永住権者を含む)も増加している。保健省の健康調査によると、高血圧の国民の割合は2010年の19.8%から、2019~20年に31.7%に拡大。高コレステロール血症も、2010年の26.2%から、2019~20年には36.9%になった。同省は健康促進SGの白書(2022年9月21日発表)で「生活習慣リスクが今後もこのままで継続、または悪化すれば、罹患(りかん)者が増えて治療ニーズは拡大し、保健歳出が拡大する可能性」を指摘した。同国の保健歳出は2010年度(2010年4月~2011年3月)の37億4,300万Sドルから、2019年度に113億1,900万Sドルと3倍以上に拡大(図2参照)。新型コロナウイルス流行によって保健歳出は一段と拡大し、2021年度には170億Sドルを突破した。保健歳出は2023年度には前年を下回る見通しだが、同省は保健歳出が2030年に270億Sドルまで拡大する可能性にも言及している。

図2:シンガポールの保健歳出の推移(単位:100万Sドル)
期間は2010年度から2023年度。2010年度は37億シンガポール・ドルだったところ、2023年度は169億シンガポール・ドルにまで増加した。

出所:財務省

オン保健相は2023年4月20日の国会演説で今後の医療体制について、かかりつけ医による診療の「プライマリーケアー(1次医療)」が基盤になると強調した(2023年4月26日付ビジネス短信参照)。健康促進SGの開始は、重症になった際に入院して治療を受けるという病院を中心としたこれまでの医療体制から、地域の総合診療医で定期的な診断を受け、病気を予防するというプライマリーケアーに転換するものだ。同相は演説で「高齢化対策の根幹は、寿命と同じくらい健康年齢を延長することにある」と述べている(2023年2月2日付ビジネス短信参照)。

ポイントアプリ利用を拡大、健康データ活用へ

保健省は高齢者の健康づくりを支えるため、同省管轄の健康促進庁(HPB)が導入したポイントアプリ「ヘルシー365(Healthy 365)」などの活用を拡大する方針だ。ヘルシー365はもともと、HPBが2015年にウオーキングを奨励するために導入したポイント制のアプリだ。1日5,000歩以上を歩いて獲得したポイントをためると、スーパーマーケットや飲食店の商品、鉄道やバスの交通費などと引き換えることができる。

ヘルシー365は現在、毎日の食生活の管理や自治体が企画する無料の健康プログラムへの参加などについても、ポイントを付与する。HPBが認証する「ヘルシアチョイス(Healthier choice)」(注1)の赤いピラミッド型のマーク(写真参照)がついた飲料や食品を購入して、そのレシートのQRコードを同アプリでスキャンすると、ポイントが与えられる。今回の健康促進SGに参加した高齢者には、同アプリのダウンロードが推奨される。かかりつけ医での最初の診断で健康プランを作成すると、3,000ポイント(20Sドル相当)が得られる。


赤いピラミッドの絵の付いたHPB認定の健康食品ロゴ「ヘルシアチョイス」が
ついた日系飲料メーカーの商品(ジェトロ撮影)

保健省は、かかりつけ医や病院、専門医、介護施設などの医師が共通の患者データに基づいて診断ができるよう、電子カルテシステム「国家電子健康記録「NEHR」(注2)の運用を拡大する計画だ(2023年3月10日付ビジネス短信参照)。健康促進SGに参画するGPは同イニシアチブの開始1年以内に、NEHRへの情報共有が義務付けられる。患者のデータ収集を円滑に進めることで、保健省などの担当官庁が対応策を取りやすくなるとしている。保健省は2022年9月21日、同イニシアチブの「最初の効果が表れるまでに8~10年かかる可能性」を指摘していた。超高齢化社会入りを目前にして、予防医療へと医療体制の大転換が始まっている。


注1:
ヘルシアチョイスはHPBが定めた塩分や砂糖、脂肪などの含有量の基準を満たした食品や飲料に与えられる認証マーク。これまでに約4,000品目が認証を受けている。詳細はHPBウェブサイト外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますを参照。
注2:
国家電子健康記録(National Electronic Health Records: NEHR)は、保健省が2011年に開始した国民電子カルテシステム。
執筆者紹介
ジェトロ・シンガポール事務所 調査担当
本田 智津絵(ほんだ ちづえ)
総合流通グループ、通信社を経て、2007年にジェトロ・シンガポール事務所入構。共同著書に『マレーシア語辞典』(2007年)、『シンガポールを知るための65章』(2013年)、『シンガポール謎解き散歩』(2014年)がある。