勢い増すアジアのスタートアップ・エコシステム最前線創造環境が完備、東南アジアのイノベーション最前線(シンガポール)

2024年3月27日

2000年代初頭、シンガポールのスタートアップを取り巻く状況は、「シリコンバレーと比べるとゴーストタウン」だったという〔2021年6月28日付シンガポール経済開発庁(EDB)記事外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます〕。今では、民間調査「Global Startup Ecosystem Report 2023」(注1)で、東南アジアで唯一、トップ10内の8位に名を連ね、イノベーション・ハブとして君臨するシンガポール。状況を一変させたのは、政府の大規模支援である。国全体をデジタル化の実験場に改装し、資金援助も絡めて、投資家やアクセラレーターを誘致するなど、スタートアップが花開く土壌づくりに余念がない。多国籍企業の圧倒的な集積、安定的な政治・ビジネス環境を追い風に、スタートアップの進出は加速度を増す。エコシステムとしてのシンガポールの現在地を概観する。

デジタル化に向けた国家プロジェクト

シンガポールのスタートアップ・エコシステムにとって、2014年が転機といえる。この年に、「スマートネーション」構想が発表され、いくつもの戦略的国家プロジェクトが始動した(表1参照)。デジタル身分証明を基に一元的な窓口から行政サービスを受けられるようになり、オンライン送金やQRコード決済が一気に普及した。また、電車・バスなどの公共交通機関が、クレジットカードだけで支払い可能になるなど、キャッシュレス経済も発展を遂げている。さらに、行政活動で得られたデータについても、機微性の低い情報は、企業の開発のために公開されている。モビリティ領域では、自動運転の開発導入に向けた基準策定や実証実験エリアの拡大を進めている(2019年12月27日付地域・分析レポート参照)。国内大学が公道や大学敷地内での実証に取り組むほか、シンガポール政府系総合エンジニアリング会社のSTエンジニアリングは、日本で高速バスなどを手掛けるWILLERと連携し、自動運転バスの試験運行を国内の植物園で行う(2022年12月8日付ビジネス短信参照)。こうした政府の取り組みは、多くのイノベーションを求める実験的な市場をシンガポールにもたらした。

表1:スマートネーション戦略のプロジェクト概要
プロジェクト 内容
デジタル身分証明
  • NRIC/FIN:出生時に登録番号(NRIC)、居住する外国人に登録番号(FIN)を割り当て。
  • SingPass/CoriPass:オンライン行政サービス利用時のIDやパスワードを一元化。
キャッシュレス決済
  • PAY NOW:電話番号やNRICを基にリアルタイム送金が可能。
  • SG QR:世界初として、QRコード決済の規格を統一。
  • Simply Go:公共交通機関にクレジットカード(VISA/Mastercard)だけで乗車可能。
センサーネットワーク
  • 水道メーターのスマート化により、複数都市で使用量の把握や漏水リスクを特定。
  • 公立学校のプールで、溺れた学生を発見し、救護するためのアラートシステムを実験導入。
  • 高齢者5,600世帯(2021年4月時点)を対象に、緊急時のアラートボタンを設置。
スマートモビリティ
(自動運転)
  • シンガポール国立大学(NUS)や米マサチューセッツ工科大学(MIT)と共同研究。研究のスピンオフとして、nuTonomyが起業。国外の欧米でも技術試験を実施。
  • 南洋理工大学と共同で、1.8ヘクタールの自動運転向け試験場を運用。
  • 民間調査(KPMG、2020年)の自動運転指標で世界1位。法制度や支援策を評価。
ワンストップ行政
  • 企業活動上の補助金や許認可の申請をそれぞれ一元化。省庁ごとに別の申請は不要。
  • 機微性の低い行政保有データを公開。民間企業のデジタルサービス開発を促す。
  • 40種類以上の行政サービスを単一のアプリLife SG(旧Moments of Life)で検索可能。
スマートタウン
  • 北東部のプンゴル地区で、産学連携のための都市開発を実施。
  • シンガポール工科大学(SIT)キャンパスを誘致。学生1万人以上が所在。
  • デジタル分野(サイバーセキュリティーやIoTなど)で2万8,000人の雇用創出を期待。

出所:シンガポール政府ウェブサイトなどから作成

こうした戦略に呼応するように、実際のスタートアップ投資が伸び始めたのも2013年、2014年である。2012年以前までは年間3億米ドルに満たなかった投資額が、2013年と2014年にそれぞれ10億米ドル、8億米ドルと大幅な増加を記録した(図1参照)。2014年は、東南アジアのスタートアップへの大型投資案件が目立った。同年11月にシンガポールの非営利団体テマセク・ホールディングスなどがEC(電子商取引)を手掛けるラザダに2億ユーロ、12月にソフトバンクなどが配車サービスのグラブに2億5,000万米ドル、をそれぞれ投資した。当時として、それまでの資金調達額の最高額を更新した。現在では業界大手となった両企業の成功は、シンガポールのスタートアップ業界が飛躍する1つの契機となった。

図1:シンガポールにおけるスタートアップ投資額の推移(2005~2014年)

注:資金調達ラウンドの実施がシンガポールで、スタートアップの調達ステージがSeed、Early Stage Venture、Late Stage Venture、Private Equityいずれかに該当する場合に限り、データを抽出。
出所:Crunchbaseから作成

シンガポール政府の狙いは、爆発的に成長する東南アジアのデジタル経済を取り込むことにある。グーグルなどの調査によると、同地域のインターネットユーザーは2022年時点で4億6,000万人と、3年前(2019年)と比べて1億人増加している。デジタル経済は2021年以降2桁成長を続けており、2025年にその経済規模は3,000億米ドル近くまで達する見通しとなっている(図2参照)。Eコマースが成長を支えながら、旅行やオンラインメディアも市場を拡大し続けている。

図2:東南アジアにおけるデジタル経済の見通し(2021~2025年、分野別)

出所:「e-Conomy: SEA 2023」、グーグルおよびテマセク(TEMASEK)、ベイン・アンド・カンパニー

エコシステムの厚みを生んだ包括支援

スマートネーション戦略を打ち出したシンガポール政府は、そこから次の矢として、積極的な起業支援に乗り出した(表2参照)。シンガポール企業庁の管轄するStartup SF Founder外部サイトへ、新しいウィンドウで開きますスキームでは、起業家に対して、最大5万シンガポール・ドル(約560万円、Sドル、1Sドル=約112円)の助成金のほか、産業分野に応じて適切な専門家などを紹介するメンタリング・プログラムを用意。

助成支援の対象は、起業家にとどまらない。スタートアップの資金調達元である投資家には、Startup SF Equity外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます制度を通じて、一定の投資金額までは7割、それ以上を5割の比率で、共同出資を行うスキームを有する。起業して初期段階のスタートアップに投資するエンジェル投資家には、投資額の5割を税控除する(注2)。アクセラレーターやインキュベーターにも、スタートアップ支援実施の費用負担を幅広く提供する。人材面では、国外のイノベーションを吸収すべく、外国起業家・投資家に特別ビザを与えるほか(EntrePass外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます)、海外を中心にインターンシップなどに参加する学生や若い従業員の派遣費用まで負担している(Global Ready Talent Programme:GRT外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます)。

環境整備としては、大学などと連携し、バイオや電子工学などの製造業に近いスタートアップが活動するためのエコシステム構築事業を国内3カ所で手掛けている。なお、上記の投資家向け助成において、シンガポール政府はディープテックにより大規模な支援スキームを提供しており、技術開発などで巨額の投資を必要とするディープテックへの配慮がうかがえる。

表2:シンガポールの主なスタートアップ支援スキーム
分類 プログラム 概要
助成
パートナーシップ
Startup SF
Founder
  • 起業家を対象に、5万ドルの助成や起業の助言(メンタリング)を提供。
  • ビジネスの種類や産業分野に応じて、22種類の幅広いメンタリング・プログラムを用意。ピッチ訓練のほか、投資家や大手企業とのネットワーク、会計上のサポートなどを提供する。
  • シンガポール国民(永住権者を含む)であることが条件。他政府機関からの助成や過去の助成受領歴がないこと、シンガポール国内で有限会社(PL)登記が6カ月以内であることなどが求められる。
助成 Startup SF
Equity
  • 官民共同投資スキーム。スタートアップ投資において最大5割を助成。
  • 助成上限は200万ドル(ディープテックは最大800万ドル)。
  • 投資家は最低3,000万ドルを保有することが条件。先端製造やバイオ・医薬、農業・食品をはじめ、アーリーステージのディープテックに注力していることが望ましい。
パートナーシップ Startup SG
Accelerator
  • アクセラレーターやインキュベーターへの助成を提供。
  • 助成の例として、(1)スタートアップの製品開発や資金調達、市場参入への支援プログラム実施費、(2)スタートアップに経営・技術的指導を行うメンターや専門家の採用費、(3)運営費(スタッフの給与など)。
人材 EnterPass
  • 外国籍の起業家や投資家などに最長1年の滞在ビザを付与。家族帯同も可能。
  • ビザ期限後は2年単位で繰り返し延長申請が可能。
Global Ready
Talent
  • 国内大学に対して、学生が国内外でインターンシップに参加する制度への助成を提供。国内でシンガポール企業に派遣する場合、インターン費用の最大7割を政府が負担。
  • 企業が入社3年以内の従業員を1年以上海外派遣する場合、派遣費用の最大7割(上限5万ドル)を政府が負担。
エコシステム Startup SG Infrastructure
  • 大学や研究機関、アクセラレーター、インキュベーターなどとの連携の下、国内3カ所でイノベーションを促進するための施設を整備。重点分野として、バイオ・医薬や情報通信・メディア、都市ソリューション、(電子)工学、先端製造、水技術を列挙。

注:表中の「ドル」はシンガポール・ドルを指す。
出所:シンガポール企業庁資料から作成

こうした政府の支援が奏功し、シンガポールへのスタートアップ投資額は、年間10億米ドルに達しなかった2000年代から飛躍的に増加し、四半期分で10億Sドルをはるかに上回る資金調達に成功している(図3参照)。現在では、スタートアップ5,081社、投資家526社、アクセラレーターまたはインキュベーター247社が集うほど、魅力的なエコシステムが発展している(注3)。

2023年は、マクロ経済の不確実性や主要国の金利上昇に伴う低迷が続いたが、直近の第3四半期は投資金額がやや上向いている、シンガポール企業庁は、投資件数もコロナ以前の水準に戻っており、「2021~2022年における投資の急増が世界資金の過剰流入による異常と考えれば、(2023年第3四半期の投資実績は)明るい材料」と指摘している。また、2023年1~9月の投資件数の64%が、地場系スタートアップに集まっており、このこともシンガポールのエコシステムの厚みを物語っている。

図3:シンガポールのスタートアップ投資動向
(2020年第1四半期~2023年第3四半期)

注:図中の「ドル」はシンガポール・ドルを指す。
出所:シンガポール企業庁

多国籍企業の存在が成長と投資の好循環を生む

エコシステムとしての、シンガポールの魅力として、多国籍企業の統括拠点が集積していることが挙げられる。ジェトロの調査によると、在シンガポール日系企業108社が地域統括拠点としての機能を有する〔調査レポート「第5回在シンガポール日系企業の地域統括機能に関するアンケート調査(2020年3月)」〕。地域統括拠点として、これら企業が担っているのは「経営企画」の機能との回答が最も多い(66社、61.1%)。経営企画とは、新規事業や再編、投資・M&Aの立案などを指す。日系企業を含めて、シンガポールには多国籍企業が投資を行う裁量を有する拠点を設置する傾向が強いことが示唆される。多国籍企業、しかもスタートアップに投資できる担当者に、容易にアクセスできることはシンガポールで起業する上で重要な強みとなる。

多国籍企業がオープンイノベーションを求めて、研究開発(R&D)拠点の設置を加速させていることも、エコシステムの発展に寄与している。シンガポールの研究拠点の主な新規設置案件(2012~2022年)の報道発表をジェトロが集計したところ、全体(283件)の50%がオープンイノベーションを目的とすることが明らかになっている(2023年4月24日付地域・分析レポート参照)。2023年も、Amazon Web Serviceがシンガポール情報通信メディア開発庁(IMDA)と共同でイノベーションセンターを開設。韓国の現代自動車も同年11月、電気自動車(EV)や自動運転に取り組む小型実証プラント「現代自動車イノベーションセンター・シンガポール」を開業した(2023年10月19日付ビジネス短信参照)。日系では、鹿島建設が自社事業に関連する地場スタートアップの支援や大学との連携を目的としたビル「ザ・ギア(The Gear)」を開業している(2023年9月25日付ビジネス短信参照)。

シンガポール政府は、さらなるイノベーション促進のため、R&Dや特定の知的財産権(IP)上の取り組み、教育機関との共同研究に対して、上限額の範囲で400%の税控除を認める「エンタープライズ・イノベーション・スキーム」を導入する(2023年2月16日付ビジネス短信参照)。

調査会社CBインサイツ(2023年10月19日時点)によると、東南アジア発ユニコーン31社のうち、シンガポールは15社と約半数を占める。スタートアップにとって「冬の時代」とされた2023年においても、ヘルステックやグリーンテックには前年以上の投資が集まっており、人工知能(AI)技術で資金調達に成功するスタートアップも登場しつつある。シンガポールは、次世代を担うスタートアップを生むエコシステムとして、一段と輝きが増していく。


注1:
米国調査会社スタートアップ・ゲノムおよびグローバル・アントレプレナーシップ・ネットワーク(GEN)の共同調査(2023年6月19日付ビジネス短信参照)。
注2:
控除の上限額は2万5,000Sドル(投資額5万Sドル)。控除の条件として、1年の投資額が10万Sドル以上の状態を2年連続で継続していることなどがある(シンガポール歳入庁外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます)。
注3:
シンガポール企業庁(2024年3月1日時点)外部サイトへ、新しいウィンドウで開きます
執筆者紹介
ジェトロ調査部国際経済課 課長代理
藪 恭兵(やぶ きょうへい)
2013年、ジェトロ入構。海外調査部調査企画課、欧州ロシアCIS課、米州課を経て、2017~2019年に経済産業省通商政策局経済連携課に出向。日本のEPA/FTA交渉に従事。その後、戦略国際問題研究所(CSIS)日本部客員研究員を務め、2022年1月から現職。主な著書:『FTAの基礎と実践:賢く活用するための手引き』(共著、白水社)、『NAFTAからUSMCAへ-USMCAガイドブック』(共著、ジェトロ)。
執筆者紹介
ジェトロ・シンガポール事務所 ビジネスディベロップメント担当ディレクター
田中井 将人(たなかい まさと)
ジェトロ入構後、300社以上の日本発スタートアップ企業のグローバル展開に携わり、CES、web summit、Innovfest等の世界的カンファレンスにて日本政府パビリオンのプロデュースを行う。官民によるスタートアップ集中支援プログラム『J-Startup』プロジェクトの立ち上げメンバー。2020年10月より現職にて、シンガポールと日本のエコシステムビルダーとして活動している。